【釜石の奇跡】ではない 学ぶべき”防災教育”とは?

 川崎杏樹(あき)さん 10年前のあの日、中学2年生のときに釜石東中学校で被災しました。
去年4月から、岩手県釜石市の「いのちをつなぐみらい館」で語り部として震災の経験や防災教育について、伝えています。
川崎さん紹介写真①.jpg

あの日から10年。岩手出身の菊地友弘アナが聞きました。

『早いなって感じる部分もあれば、まだ10年と感じる部分もあって、まちなかを見ていると景色が震災当時と変わっているので、嬉しい反面ちょっと寂しい。一概にこういう気持ちといいづらい複雑な心境』といいます。


 川崎さんが通っていた釜石東中学校は、海から2mのところにあり、津波で全壊。建物は取り壊され、跡地には復興と希望の象徴として2018年に「釜石鵜住居復興スタジアム」が作られました。

震災直後の鵜住居地区.jpg
『まさか自分たちの通っていた学校の跡地にあんなものができてW杯もあるとは思わなかったので、スタジアムをきっかけに釜石、鵜住居を知ってもらうきっかけになったので、そういうところは嬉しい』

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 生まれて14年過ごした町が一瞬でなくなりました。

『それは一生戻らないというなかですごく寂しい。もっと自分の街を大切に思っていればよかったなと。後から思ってしまうので、後悔もある。二度とあの景色は見られないのは寂しい』と話します。


 あれから10年、風化を感じることが多いそうです。


 『日ごろから震災の話をするのもしんどいと思うが、あまり会話にも出てこないし、思い出話になってしまう、どこか自分はあのとき逃げられたから安心だと思っていたり、震災について考えることも減ってしまったし、自分の記憶も話しているおかげでできているが、一人一人の中で震災のことはどうしても忘れてしまっていることがあると思う。』

 語り部を始めて1年、難しさも感じています。

 『語り継ぐということについては、経験をした人だけでなく、いまの小中学生が次の時代につなぐことをしていかないと教訓が残っていかないし、教訓を生かせなかったとなりかねないので、語り継ぐという工夫も必要になってくる。津波の恐ろしさは経験した人しかわからない。経験して、あのときどうだったか・・・・。津波をみた瞬間、本当に頭が真っ白で、いま起きている状況を理解できないかたちだった。何が起きているんだろうという感じだった。よく家族の心配などしなかったか聞かれるけど、そこまで考える余裕がなかったのが本音。津波を見た瞬間死ぬんじゃないかと思った。自分が生きるか死ぬか。津波から逃げることができると思って少したってから、家族は、と思った。』

震災前の防災教育の様子①.JPG
 避難につながったきっかけは避難訓練のおかげ、だといいます。私たちも学ぶべき、釜石の防災教育です。


『中学校で毎年避難訓練をしていて、毎回同じではなく想定を変えながらやっていたので、生徒全員が避難をすることに抵抗がなかった。すぐに避難できたと思う。』


 川崎さんが通っていた釜石東中学校と、隣にあった鵜住居小学校は、津波で全壊したものの児童や生徒約570人(99.8%)が高台に避難をし、生き残ることが出来ました。
 震災直後は「釜石の奇跡」と呼ばれていましたが、いまは、その背景に徹底した防災教育があったことが知られ「奇跡」ではなく、「釜石の出来事」として語り継がれています。


『奇跡という言葉はあり得ないことがおきるというイメージだが、防災教育をやってきた結果だと思うので、何もやっていない学校が助かったなら奇跡だが、私たちの防災教育も見てほしい。』と話します。


『中1のときのは、津波の早さを体験する授業とか、炊き出しをやってみるとか、防災マップをやってみるとか、いろんな活動を縦割りにして、あるチームは水難救助、消化かつどうなど自分の興味があるところ選んでやっていた。私たちとしては意識を高くというよりは仲のいいことやるちょっと楽しい時間という感覚。』

 例えば、校庭に先生が車をもってきて、津波の速さを体験する授業。 津波の早さは地上にきたときが36キロと言われていて、 その時速36キロで車を走らせて、競争するような授業です。

 そこで、逃げ切れない、36キロを体で体験すると無理であることを体感して、津波が来てから逃げては遅いことを学ぶのです。


 それでも子供のころから、三陸地震などを学習してきましたが、当事者になるとは思っていなかったと振り返ります。
『わたしたちも普通に生活していただけで、そこに大きな災害が起きてしまった。なんらみなさんと変わりなくて、たまたま災害にあっていないだけ。災害にあいたいひとは絶対にいないし、ここに住んでいる人もみんな同じ気持ち、準備しておけばよかったといろいろ後悔したし悲しい思いをしたので、こういう経験をしたからこそ、ぜひ備えてほしいという思いがあるので、まさかなと思っても、自分にできることから防災をやっていってほしいと思います。』

 
 川崎さんがこれを備えているという具体的なものを教えてくれました。


『生き残ることが最優先なので、職場でも家でもみんなどこに逃げるかの確認はしている。職場ならどこ、どこに集合、確認するようにしている。

 モノでいうと、使っていないリュックに着替え何日か分、寒いのでカイロとか、ヒートテックなど入れて、どこか寒いところにいっても耐えられるように詰めておいている。

 避難所には備蓄倉庫がああるので食料などはあるが、個人のもの、自分しか使わないものは自分しか用意できないので、そういうものを持ち合わせていると楽だと思う。精神的にも落ち着くと思います。』

川崎さん防災リュックの中身.jpg

#あれから私は ・・・語り部になりました。

『いつかいつかとは言うが、それがいまかもしれない、というところを経験したので、災害は絶対におきるものだと伝えて、そのときに助かることはできると、実体験をしているので今後も、強く伝えたいと思います。』

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この記事を書いたのは

SODANE編集部

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