次の誰かのために・・・
今回は34歳、長野県に住む34歳、ユキさんのお話です。AYA世代のがん患者は様々な悩みを抱えています。
31歳で卵巣がんに・・・
ユキさんは3年前、31歳で卵巣がんと診断されました。
ユキさん『当時はアパレルで仕事をしていました。仕事の休みも少なく、本当に忙しく働いていて・・・。不正出血と腹のハリが感じてはいたものの、2か月ほどそのまま働いていました。
不正出血は気にしてなかったんです。仕事中、腹痛がどうしようもなくなるまで痛くなって、店長にあす休んで病院行きなと言われたのでようやく病院に。』
婦人科の検査を受けたことがある方はわかるかと思いますが椅子に座って下半身を見てもらっているとき、カーテンの向こうの先生がザワついていたといいます。
『婦人科のカーテンの向こうでカメラみてくれるときにどんどんセンセイたちがいっぱいあつまってきてこそこそ話していたのですぐ気が付きました。卵巣腫れているからすぐCT、精密検査だ、と。左の卵巣が腫れていて、あす来れますかと言われて・・・。』
実はお母さまが看護師。しかも婦人科の看護師で助産師。自宅に戻り、話しました。
『母に卵巣8センチになっていて検査、っといったら、8センチは摘出。一度腫れたものは小さくならないと言われました。
次の日、CTも受けました。その次の日にMRIも受けて・・・1週間後に手術しましょうと。さらに腹水もたまっていました。』
その次の日に更なる事態がユキさんを襲います。
『次の日にどうしても苦しくなってしまって、何も食べられなくて水も飲みたくても何をしても張ってしまって・・・MRI検査から3日後に緊急で夜間に病院に駆け込みました。いますぐ入院と言われて、一週間待たず、即、翌日手術となりました。』
そのまま入院となってしまったので、会社に電話したり、店長に電話したり、病院にはお母さまがついていってくれていたので荷物の手配をしてくれることになりました。
でも、急なことでスマホの充電器もなく、電源切れ・・・やることもなく、ただただ、眠れない日々を過ごしたといいます。
さらにその手術の日にも更なる事態が。
『手術の日に、たくさん検査があったんです。途中で立ち寄った売店で貧血で倒れてしまって、近くの方に助けていただいて、車いすで病室に戻って、そのまま手術。ひとまず左だけとりました。でも、生まれて初めての手術で興奮してしまったのか、今度は術後にせん妄が起こって、大暴れしたのです。
個室に移されました。理性を失ったといいますが、管がたくさんついてるのに立って歩こうとしたりとか、親に死にたいと言ったり、医療ミスだといったり・・・。実は何も覚えてないんです。痛すぎて、さらに興奮しすぎて。』
引き続き、1週間入院して、手術でとった卵巣が、がんか、そうじゃないかがわかる日。病理検査の結果が出る日のことでした。
『病室や診察室などではなく、ナースステーションで告知を受けました。入った瞬間にがんの本が置いてあって、そっちか、と思いました。この後、さらに子宮と右の卵巣をとって、抗がん剤も、と言われました。』
抗がん剤をやっても子宮と卵巣をとらねばならないのか?と聞いたら進行してるからとらないと命が危ないと言われたそうです。
とっさにティッシュをくれたのは看護師さん。
ユキさんに突然、突き付けられた、子供が産めなくなるという現実。周りにいた薬剤師さんも看護師さんもみんな涙していたそうです。
その日から1週間後からまず、抗がん剤を3クール。そして卵巣と子宮を摘出して、1か月の入院。退院後、3か月間でもう一度、抗がん剤。追加でアバスチン(分子標的薬・ベバシズマブ)を1年受けて、経過観察となりました。
一年半後にまさかの再発
最後の治療から1年半後、去年の8月に再発、横隔膜と骨盤周りでした。腫瘍マーカーがあがってきていたので、抗がん剤5クールと分子標的薬も1年やって再発防止の新しい薬を飲んでいました。
効果があり、一度がんは消えていましたが、再びの経過観察から7か月で再発。また横隔膜に再発していて、肺、肝臓まわり、(肝臓には入ってない)今は2回めの再発治療、ということで抗がん剤をやっていて、3クール目が終わったところだそうです。
ユキさん『夜遊びもお酒も飲んでました。乗り越えたなと思っていたら、またなるんだ、と思って。完全になくなることはないから、またそのたびに治療して、という形になる。再発しては休むの繰り返し、5回とかの人もいるそうです。そのたびにかつら、、ウイッグを付けるので、何年かつら生活か・・・。』
最初にがんが見つかったときは仕事はアパレル関係。がんとは伝えませんでした。感染症のリスクもあるし、肉体労働なのでということもありますが体調不良から”そんなんでできるの?”とか”辞めた方がいいのでは?”と心配されたそうです。かつらにもなるし、言われる度に無理なんじゃないかと思って退社を決意。
その際、店長などには詳しく言わず、、察してほしい、一身上の都合ということで辞めたそうです。
がんであることは周りの誰にも言えず、1年半は仕事をしていなかったそうです。
『治療がひと段落して、別の会社に入り、現在も仕事にしているWEBデザインの仕事を始めました。しかし、非常にブラックで小さい会社。上司も気づいたらいじわるで、ストレスためながらやっていました。病気も打ち明けて入っていたこともあり、給料も激安だったんです。自分ができないことがあると泣いて頑張っていた。社長に逆らっている人がいなくて、頑張るのが当たり前だった。』
『そうしているうちに再発。今回は、引き留められたけど、またすぐにやめました。リモートでどうかとも言われたのですが・・。話しているうちに社長に最後に健康な人がほしいんだ、と言われて・・。悲しかった。
そこから仕事のことを考えて、生きていくのにはどうしたらいいのか。実家に住んでいるけれど親も年取ってくるし、お金を稼がねばならない。病気の治療もあって、それとの両立。治療費をどんな仕事をしてでも稼がねばと考えました。』
フリーランスでアルバイトでは収入は少ないし、シフトに穴を開ける可能性があるのも難しい。正社員は無理ではないかと考えたそうです。ユキさんはフリーでやろうと決めて、準備して開業。フリーランスのwebデザイン。今の時代だからこそ、クラウドソーシングで仕事を取れるのではと思ったそうです。
でもそううまくはいきません。半年くらいは収入ほぼなく、開業届を出してから貯金切り崩して・・・生活していけるのか、と悩む日々。
そこにようやく先月からいい会社と契約できて、毎月、決まった仕事ができて安定してきたそうです。
本当に仕事とがんの治療は大きな問題です。
ユキさん『日々落ち込んで、ちょっと復活して元気になる、の繰り返し。自分自身がいままでとは違うので、やっていける道を自分で作り出すしかない、と。うまくいかないことも多々あって、落ち込んだり、前向きになったりの繰り返しです。』
子どもが産めなくなったのが本当に大きい
『子宮をとらねばならない現実が飲み込めなくて。(抗がん剤の間の)3か月間くらいとらなきゃとずっと思い聞かせて・・・。とったあとも全然飲み込めなくて、処理できなくて・・・友達ともうまくいかなくなって。』
子育てをしている友達はインスタもブロック。そうしたら友達とも連絡をとれなくなりました。心療内科に通って、薬をもらうことにしました。
ユキさん『なんのために生きているのか、自分の価値はないのか?と思ってしまった。友人の子どもたちは見たくない。デパートへいっても知らない子連れもみたくなくて、いきたくなかった。少子化だけど、子どもは街にいて、自慢しているように見えて。』
そんなユキさんの心を救ってくれたのは乳児院でした。
後半に続きます。
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