73歳で入植、原野開拓ってどうよ! | 陸別町のルーツ、関寛斎 『編集根気』

北海道・陸別町は『日本一寒い町』だけではない

陸別町って知ってますか?北海道の内陸、十勝にある町で、「寒さ」で有名です。町のホームページのキャッチコピーが「日本一寒い町」です。一月の平均最低気温がマイナス20度くらいで、富士山頂を除いて全国のアメダスポイントで一番寒いんだそうです。マイナス30度以下にもなることもあるので、寒さが観光の目玉なんですね。

まだ陸別の名前もないとき、この地に73歳で入植し、原野を開拓した人がいます。

73歳ですよ!

新しいことを始めるのに遅すぎることはない!とは言いますが、いくらなんでもハードモードすぎませんか?

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この話、仕事の関係で読んだ資料、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」シリーズの「北海道の諸道」の最後の方に出てきました。私は陸別は通過したことがある程度ですから、そんな人がいたことも全く知らず、驚愕しました。

「街道をゆく」は司馬さんが週刊朝日に連載していたシリーズで、彼が日本や世界のいろいろなところに出かけて行き、彼のウンチクを爆裂させるというたいへん知的好奇心をくすぐる本です。全編、そのウンチクに「へぇ〜!」が連発なのですが、この陸別の物語はすごかった。

さて、そしてこの物好きな入植者ですが、名前を関寛斎(せき・かんさい)といいます。1830年、現在の千葉県の貧農の家に生まれ、蘭方医となり、阿波徳島藩から招かれて地域医療に献身します。悠々自適に老後を過ごしてもいいはずなのに、なぜか明治35年、北海道開拓に心をひかれ、「十勝国斗満(トマム)」という今の陸別町のあるところに入植するんです。

当時のこの地の様子がどんなだったのかは想像するしかありませんが、文字通り原野を切り開く開拓であったと思います。

なぜ73歳になってこんなことを決意したのか。司馬さんの筆によれば、寛斎は藩召し抱えの医師だったにも関わらず、戊辰戦争後は自ら「士族」の身分すら捨てて、明治維新後は一介の開業医として徳島で過ごします。寛斎という名前も、簡単な「寛」という一字にしてしまったそうで、「自分に虚飾が付着することを病的にきらった」そうです。

いいですね。こういう人。個人的には好きなタイプ。「課長」とか「部長」とか「先生」とか、そういう風に呼ばれるのは大嫌い、というタイプなんでしょう。医者としても、貧しい人には無料で診察し、払えない人には種痘も無料で行っていたそうです。68歳のときには月3,000人に無料種痘を施していたそうですから、その筋金入りぶりがわかります。

60代半ばころから、医の道を捨てて北海道開拓民になりたいという思いが頭をもたげてきたようです。なぜそう思うに到ったのかは詳しく触れられていませんが、たまたま四男が札幌農学校に学んでいて、入植地としてここを勧めたようです。

いずれにせよ寛斎は明治35年、73歳のときにこの原野に、結婚して50年になる老妻とともに入植します。道なき道をたどり、どれほどの苦労でたどり着いたのでしょう。木を切って、根を掘って、地面を平らにして、それは壮絶な開拓だったのではないかと思います。

司馬さんは書きます。「かりに寛斎がべつの土地を選んでそこをひらいたとすれば、陸別はいまなお原生林のままであるにちがいない。小樽や函館のように、たれでもが目をつけるという立地条件をもっていないのである。」
  
寛斎がこの地で目指したのは畑作ではなく牧畜だったようです。そして、今でも陸別町の主要産業は酪農です。

しかし、寛斎の入植はハッピーエンドでは終わりません。入植して2年目で妻を亡くします。その落胆にもめげず、開拓を続けますが、入植後10年目、寛斎は服毒して自らの命を絶ちます。享年82歳。いったい何があったのでしょう……。

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なぜ寛斎はこの厳しい土地を開拓しようと思ったのでしょう。他にも条件のよい北海道の土地はいくらでもあったにもかかわらず、です。司馬さんは、事前のリサーチで陸別出身の僧侶に話を聞いています。司馬さんはこの僧侶の「関先生は、人間の力が耐えられる極限のようなものを試してみようとされたのではないでしょうか」という言葉を引用しています。

ここまででくると寛斎の中の宗教性のようなものを感じてしまいますが、彼は無神論者で科学的合理主義者だったようです。ただし、徳富蘆花やトルストイには傾倒していたようです。トルストイは晩年、私有財産否定論に行き着いた人なので、そのあたりに寛斎の思想性を感じることができそうです。そういえばトルストイは晩年家出もしていましたね。そしてトルストイが旅先で亡くなったのも82歳。これは偶然?

寛斎死後、財産分与を巡っては残された親族で争いがあったことも書いてありました。人生は難しい……。
 

今、陸別町には道の駅の中に「関寛斎資料館」というのがあるようです。私も還暦を過ぎて、引退モードに入るのもいいなぁと思っていましたが、寛斎の生き方に触れて、まだまだできることがあるかと思った次第です。原野開拓は勘弁ですが……。

司馬さんの作品、『胡蝶の夢』には関寛斎が出てくるらしいです。まずこれを読んで、近いうちにぜったい陸別町の関寛斎資料館に行くぞ!

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※写真提供:陸別町教育委員会

※この本に出会ったきっかけはこちら。

司馬さんの最後の担当編集者が語っています。

『週刊朝日』創刊百年 活字文化のこれまで、これから

https://www.asahi-afc.jp/premiums/special/210

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この記事を書いたのは

吉村卓也

フリーランスの編集者、ライター、フォトグラファー、ビデオグラファー、デザイナー、プランナー、プロデューサー。並べてみたらカタカナばかりになった怪しい肩書き。その他、ジャンルを問わず自分にとって、北海道にとって面白いと思うことは何でもやってみたい。
埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。1996年より札幌在住。以来住んでいる札幌市南区をこよなく愛する。
朝日新聞社(写真部員、数年しかいなかった)を経て、米国ミズーリ大学ジャーナリズム学部留学。その後、北海道に住みたいという夢を実現すべく札幌へ移住。
1997年に運良く東海大学札幌キャンパスの教員となり、2018年まで20年間勤める。
2018年株式会社メディアグレスを設立して代表となる。
同年より「アサヒファミリークラブ・プレミアムプレス」の編集に関わる。
https://www.mediagres.com/

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