昔の北海道の家はなぜ寒いのか? 司馬遼太郎がそのナゾに迫る! 編集根気 第2回

 北海道に残る歴史的家屋に行くたびに思います。どうやってこんな断熱のない家で暮らしていたんだろう。さぞ寒かったに違いなかろう、と。

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司馬遼太郎『街道をゆく』北海道の諸道・オホーツク街道

 引き続き司馬遼太郎の「街道をゆく」の中からの「なるほど」納得シリーズです。「北海道の諸道」に出てきた「住居と暖房」の話です。そう、ウンチク話は暖房にまで及ぶのです。その項の最初にこう書いてあります。

 「日本の伝統な住居が、多分に南方的であることは、どこかで触れた」

 そうなんだ!でもどこで触れたんですか〜?出典わからず。たぶん「街道をゆく」のどこかのシリーズなんでしょう。出典書いて欲しかったけど、まあ気にせず進みます。

 簡単に言うと、かつての日本の中心、西日本で始まった稲作文化と、そこに住む人たちの高温多湿向けの住居スタイルがあまり改良されないまま津軽まで広がってしまった、ということらしいです。そして、それはそのまま北海道にまで伝わってしまったいうことなんですね。

 司馬さんの本にこんなエピソードが紹介されています。開拓使のお雇い外国人、ホーレス・ケプロンが旅の途中、銭函あたりでたどり着いたのがわらぶきの小屋で、それは到底北国のものとは思えない作りだったそうです。明治時代にも防寒対策は全くされてなかったようですね。ケプロンの日記からの引用が面白い。

 「火鉢に木炭をおこすというミゼラブルな方法以外には、家を暖める何等の設備もない。煙突もなければ、壁炉(ファイアー・プレース)もなければストーヴもない」 

 確かにこれは相当ミゼラブルですね。めちゃくちゃ寒かったに違いありません。

 暖気を逃がさないように、窓は極力作らず部屋を閉め切ってたらしく、空気が悪くなって肺を悪くする病人が続出したらしいです。黒田清隆はケプロンから教えてもらった「ストーヴ」という室内を暖める装置があることを知ってたまげます。後に黒田は、開拓使からの通達として、「火鉢をやめてストーブを使え」と言ったらしいですが、この寒さの中で火鉢しか部屋を暖めるの手段がなかったこと、ストーブという暖房方法を、外国人から教えてもらうまで誰も思いつかなかったというのは驚愕でした。だいたい「暖房」なんていう言葉もなかったのでしょうか。そんなことある〜?!

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(展示されていた陶器製の湯たんぽ)

 で、司馬さんが疑問に思うのが、「いくらなんでも、もうちょっと寒さをしのぐ方法あったんじゃない?」ということです。私もそう思います。壁を厚くするとか、戸を二重にするとか、せめてそのくらいのことは思いつきそうです。朝鮮半島にはオンドルという伝統的床暖房だってあるのに、何でそんなことも考えつかなかったのか?

 司馬さんの推論は、この西日本のスタンダードである「夏仕様」を北海道に取り入れることが、蝦夷地の「日本化」に必要だったのではないかということなのです。地域性を考えない、文化の押し付けですね。「日本の住居はこうあるべし」という傲慢が見て取れます。そういえば徒然草にも「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居(すまひ)は、堪へ難き事なり」、と書いてありました。

 「日本住居こうあるべき論」が染みついていたということなのですが、「冬は、いかなる所にも住まる」って、一冬住んでみれば分かるでしょう。いかなる所にも住めねーって!!

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(ガラス一枚の窓、気密性ゼロ・・・)

 しかし、住む方もそれに呼応するように、京都風の住宅こそがステータスシンボルであって、「防寒対策」を施すような無粋なことはやりたくなかった、いくら寒くても。当然、先住民アイヌが住んでチセ(家)で取り入れられていた、1年中囲炉裏に火を絶やさずに地中に熱を貯めるような知恵にも見向きもしない。支配者が自分の土地の文化を被支配地に強引に根付かせようとするのは世の東西を問いませんが……。

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旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)

 札幌で当時の家屋(といってもかなり高級住宅の部類に入るのですが)の様子を体感できるのが南区簾舞(みすまい)にある旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)です。ここはかつての街道(今の国道230号)の休憩所のような位置づけの建物で、現在札幌市指定有形文化材となっていて中には資料の展示もあり、公開されています。明治5年に作られた建物が、そのまま移築されて残っています。立派な建物です。後には宿屋もやっていたそうで、部屋もたくさんあります。雨戸があり、それを開ければ縁側になり、そこから畳の部屋が続きます。外と内がつながっているような開放的な雰囲気は、京都あたりでよく見かけそうで、確かに司馬さんが「南方的」雰囲気があります。管理人さんの話によれば、夏は涼しいそうです。問題は冬。暖房は?と見ると部屋毎に囲炉裏があるだけ。

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暖をとるのはこの囲炉裏だけ

さすがに今の「メインダイニング」のような部屋の囲炉裏は大きいですが、その他の部屋には小さなものがあるだけ。これが暖房のすべてだったかと思うと恐ろしい。ここは通年で開館しているのですが、「冬は5分といられませんね」とのこと。かつての北海道家屋がどれほど寒かったかを身をもって体験するには最適の場所でしょう。

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 この項を執筆しているのは4月中旬。朝夕はまだ冷えます。「暖房」のスイッチを押しながら、先人達の寒い住居に思いを馳せました。



※旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)

https://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building46.html

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この記事を書いたのは

吉村卓也

フリーランスの編集者、ライター、フォトグラファー、ビデオグラファー、デザイナー、プランナー、プロデューサー。並べてみたらカタカナばかりになった怪しい肩書き。その他、ジャンルを問わず自分にとって、北海道にとって面白いと思うことは何でもやってみたい。
埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。1996年より札幌在住。以来住んでいる札幌市南区をこよなく愛する。
朝日新聞社(写真部員、数年しかいなかった)を経て、米国ミズーリ大学ジャーナリズム学部留学。その後、北海道に住みたいという夢を実現すべく札幌へ移住。
1997年に運良く東海大学札幌キャンパスの教員となり、2018年まで20年間勤める。
2018年株式会社メディアグレスを設立して代表となる。
同年より「アサヒファミリークラブ・プレミアムプレス」の編集に関わる。
https://www.mediagres.com/

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