「北海道は夏でもエアコン要らないからいいよね」
昨春、札幌への転勤が決まった私に、同僚たちは似たような言い方で励ましてくれた。
本当かどうかはともかく、あの地獄のような猛暑から解放されると思うだけで嬉しくなった。
日本の暑さは異常だ。
東京や大阪、福岡といった国内の主な都市での勤務経験があるが、中でもとりわけひどかったのが名古屋の夏だった。
ある夏の夜、名古屋の歓楽街、錦3丁目(地元ではキンサンと呼ばれている)の飲食店から外に出た瞬間、その暑さと湿気で息が苦しくなり、思わず店内に逃げ戻った経験がある。そのとき、お店の人から「夏は地下に潜らないと死んじゃうよ」と笑われた。
ああ、名古屋の夏ってそうなんだ。
聞くと、濃尾平野のフェーン現象と、やたら道路が広い市街地のヒートアイランドが主な原因らしい。たしかに真夏の名古屋人は冷房のガンガン効いた地下道に避難している。
これって、チカホに潜る札幌の冬と同じじゃないか。
そういえば名古屋と札幌は街並みがそっくりだ。名古屋にも大通公園があり、ランドマークのテレビ塔がある。そして巨大な地下空間がある。
ただ、名古屋と札幌では決定的な違いがある。食べ物だ。
名古屋の名物といえば、あんかけスパや小倉トーストといったB級グルメしかない(ちょっと言い過ぎかな)。それにカツやおでんなど何でもかんでも味噌をかけないと気が済まない(同)。特に名古屋の甘ったるい味噌が私は苦手で、味噌カツで有名な「○○とん」でも私は味噌ではなくわざわざウスターソースで注文していた(味噌カツの店なのになぜかソースを選べた)。ただ、なぜか味噌煮込みうどんにははまってしまった。
話を元に戻そう。
25階のマンションの部屋は東向きだ。3月末に引っ越した頃、外気はまだ冷たかったが、朝から日が差し込む部屋はすぐに暖かくなった。窓は二重で機密性が高く、夜中でも寒さを感じることはない。オール電化のマンションで部屋には大きな蓄熱器が備え付けられているが、次のシーズンの冬になるまで電源を入れることはなかった。
さすが札幌のマンション。完璧な寒さ対策に驚いた。
入居してしばらくはカーテンを開けたままにしていた。
閉めるとせっかくの窓が壁になってしまい、ただでさえ狭い空間が密閉され、息苦しくなる。25階だと夜でも外からのぞかれる心配はないので、一日中開けっ放しでいられる。これもタワマンの魅力の一つだろう。
しかし、その習慣がいつまでも続かないことは、小学生でも分かることだった。
1カ月もすると午前4時には東の空が明るくなる。
午前6時には太陽の光がダイレクトに窓から部屋中を照りつけ、まぶしさと暑さで思わずカーテンを閉めてしまった。
引っ越しの度に付け替えてきたカーテンは分厚い遮光性だが、それでも焼け付くような光が狭いワンルームの温度をあっという間に上げてしまう。
結局、朝はカーテンを閉めたまま出勤するようになっていた。
これじゃ、25階に住んでいる意味がない。
そんな夏の朝、カーテンの隙間から窓をのぞき込むと、風が強いのか、雲の流れがいつもより速い。
ハッと気付いた。
窓を開けたら涼しくなるのではないか。
マンションの窓は2重になっていて、規約でベランダに物を置くことができないため、開けたことはほとんどなかった。でも網戸も付いているし、虫もほとんど見たことがない。カーテンをしたままなら、窓を開けても怖くないかも知れない。
窓枠に吸い付いたように固く閉じられていた2重サッシを力いっぱいスライドさせた。
なんということでしょう。
爽やかな風がカーテンの裾をめくり上げ、部屋を通り抜けた。
エアコンが要らないというのは本当だったのか。
と喜んだのと同時に、私はそっと窓を閉めた。
ゴーッという重低音、シャーッ、ゴトゴト、ガタンガタンという金属音、時折響く警笛…
様々な種類がミックスされた、子供の落書きのような音が、涼風と一緒に部屋に飛び込んできた。
25階の窓の下には、建物の隙間にJRの鉄路が見える。札幌駅と新千歳空港とを結ぶ主要路線で列車がひっきりなしに行き来している。そこから発する雑多な音が、25階まで、まるで投網漁のように吸い上げられていた。
鉄道オタクじゃない私にとってはただの騒音でしかない。
結局、2重窓はもとのはめ殺し状態に。早くも6月には我慢できずにエアコンのスイッチを入れた。そういえば、部屋には最初から立派なエアコンが備わっていた。
「北海道の夏はエアコンが要らない」
これは、都市伝説である。