最近よく聞きますね、SDGs(エスディージーズ)!今どきは小学生でも知っている言葉らしいです。なにかというとSDGs、背広の襟に丸い輪っかのSDGsバッジをつけている人もいたりして、「あなた、本当にSDGsな生活してるの?」とツッコミを入れたくなる天の邪鬼です。
さて、今回の取材はそのSDGsでした!その名も「SDGs QUEST みらい甲子園」。高校生がチームを組んで、SDGsにつながる取り組みのアイデアを競うというものです。北海道のファイナルが3月下旬に行われ、優秀なアイデアが表彰されました。
その前に、そもそもSDGsって何なんだ?
ざっくりと説明を試みます。
SDGsは、日本語で言うと「持続可能な開発目標」。英語のSustainable Development Goalsの頭文字を取った略です。最後に小さなsがついているのは、この「目標、ゴール」(Goal)が複数形になっているからで、目標は1つじゃないよ、ということですね。
※SDGsの17の目標(ゴール)
これを言い出したのは国連です。国連のサイトによれば、2015年9月にニューヨークの国連本部で開かれた「国連持続可能な開発サミット」で「193の参加国や地域の全会一致で採択」とありました。「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」でというらしく「17の目標と169のターゲットからなる持続可能な開発目標(SDGs)」がめでたく世界共通の目標となった訳です。
ほ〜!全会一致とはすごい。拒否権発動もなく、あれだけいろんな場面で利害の対立する国連でも、誰も文句を言わずに採択とは!みんなが賛成、誰も反対できない。これはますますうさん臭いじゃないか!
要するに、2030年までにみんなで持続可能な社会を作り上げましょう、ということ。ということは、このままで行くと世界は持続しないのじゃないか、という恐れの裏返しでもあるわけです。「持続しない」とは穏やかな言葉ですが、「このままだと地球は滅亡する」、と言い換えてもいいかもしれません。それは困る!
正直言うと、私ら世代はそれまでには「おさらば」なのであんまり関係ないんだけど、やっぱり孫子には幸多かれと願いたいです。
このまま地球環境を考えない生活をしたり、天然資源を使い続けたり、貧富の差を縮める努力をしなかったりすれば、世界はよくならない、人間は幸せになれない、みんなでなんとかしよう!ということになりましょうか。
※グレタ・トゥーンベリさん(public domain photo)
「なにをいまさら」感がないではありません。
だからスウェーデンの環境活動家で当時16歳のグレタ・トゥーンベリさんはブチ切れました。彼女の演説を私なりに翻訳すると……
「あんたら(大人)が話しているのは相変わらず金のことや、経済発展の話ばかり。あんたらが私たちに残したものは何なんだ。私たちの未来を奪ったんだ。よくもそんな嘘が言えたもんだ!絶対に許さないぞ!」と、相当の怒気を含んで、国連の気候変動サミットで訴えました。
これは、何となく「このままじゃまずいかもな」と思っている大人たちの心にグサリとささりました。「オレたちはそこそこ幸せだったから、あとはよろしく〜」と、逃げ切り安心と思っていた大人たちにも「う〜ん、ちょっとずるかったかも」と、心にさざ波を立てるには十分だったのではないでしょうか。
SDGsを国連が決めたのは、グレタさんのスピーチの前ですから、彼女の言動が国連のSDGs採択に影響を与えた訳ではありません。
だが、そうなのです。私の世代(現在63歳です)はラッキーだったと思います。子ども時代は高度成長のまっただなか。親の給料は黙っていても上がり、毎年のように新しい家電が家に入って、車にも乗れ、戦争もなく、未来はこれまでよりも豊かになる、と当り前に思えた時代でした。バブル時代の社会全体が浮かれたような雰囲気もよく覚えています。会社勤めをしていたころ、部屋の事務机や椅子がたいして傷んでもいないのに、一斉に新品になったりしました。利益が出すぎて、経費の使いどころを必死に探していたんでしょう。異常ですね。
私は20年間大学の教員をやっていました。だから、若者の観察という点では普通の人よりも多少は何かを語れると思います。「最近の若者は元気がない」「やる気があるのかないのかわからない」というような声をよく聞きました。確かにそう見えないこともなかったです。なんとなくおとなしく、昔の学生運動のような熱狂など、全く考えらません。
でも、あるとき彼らの産まれた年を見て気づきました。バブル崩壊以降に生まれているんです。ということは、高度成長はもとより、日本が輝いていた時代、異様な勢いがあった時代を何も知らない。生まれてこの方、親の給料はたいして上がらず、あるいは不幸にもリストラの恐怖におびえ、日本の経済成長は期待薄で、Japan As Number Oneなど遠い昔、不景気のニュースばかりが聞こえてくる中で育ってきています。そんなことが家庭の雰囲気に影響を及ぼしていないはずはありません。これで「元気を出せ」「覇気がない」と言うのはあまりに酷というものでしょう。「やる気あんのか?」と憤慨している同僚の先生たちに、「まぁまぁ、時代が違うんだから」と言ってもなかなかわかってもらえませんでした。
さて、私が取材で会ったのはSDGs活動に取り組む日本の高校生たちでした。
「SDGs Quest みらい甲子園」という大会が3年前から行われていて、全国で地域の大会が開かれています。高校生が参加するとなんでもかんでも「甲子園」になってしまうのもどうかと思いますが、それはさておき、参加した高校生たちはみんな真剣でした。
話を聞きに行ったのは、ファイナル審査に残ったチームの所属する高校のうちの3つ。道東の中標津農業高校、札幌の市立札幌開成中等教育学校、市立札幌藻岩高等学校です。
彼女ら、彼らの詳しい取り組み内容については、本編記事をお読みください。
https://www.asahi-afc.jp/premiums/special/213
農業高校の生徒たちは「光合成細菌」というものを使って畑の収量をあげる実験を、あとの二つの高校は、地域にある「子ども食堂」の運営をサポートするアプリを企画したり、個人の健康を記録する母子手帳の発展版のようなものを世界に広めて乳児死亡率を下げようと考えていたり、それはなかなか真剣でした。他の出場校の最終プレゼンテーションも見せてもらいましたが、日本の高校生はいつのまにこんなに「考える」ようになったのか、と感慨深かったです。自分の高校時代とは明らかに違う。高校生の頃、自分はこんなに人前で堂々と、自分の考えを述べることができただろうか。いや、絶対に無理でした。
これにも語れる経験があります。私は大人になってから米国留学を経験しました。授業のスタイルがまるで違う。大教室の講義もあるにはありますが、メインは学生が自分の考えを表明すること、それに対する先生や他の学生からの意見のキャッチボール、それから「あなたの考えは?」を問われる発表(プレゼンテーション)。学生の国籍も様々でした。私はそれが最初は全くできず、つくづく「ああ、オレはつくづく日本の教育の賜物だ」と、大いに凹んだことを思ったことを思い出します。翻って、SDGsみらい甲子園に出場した高校生たちなら、こんな場に臨んでもひるむことなく発言できるに違いない、と確信しました。時代は変わるんだ。
小中高の学校現場に「総合的な学習の時間」というのがゆとり教育の導入と共に導入され、今はそれが高校では「総合的探究の時間」というものに代わり、引き継がれています。自分でテーマを見つけ、それを「探究」していくのが大事だ、と文科省が思ったということでしょう。これは学びの本来の姿だと思います。
ゆとり教育には多くの批判がありました。学力が下がるとか、大学生が分数ができないとか、そんなネガティブキャンペーンもありました。「探究の時間」に対しても同じような批判があるのも承知です。ゆとり教育で育った世代は自分たちを卑下して「私たちゆとり世代だから」みたいに言う風潮もありますが、そんなことは絶対に止めなさい!少なくとも「考える」ことは「覚える」ことより大事だということは身を持って教わったはずです。それよりも、ゆとり世代が生んだのが大谷翔平だと、胸を張って言って欲しいと思います。みらい甲子園で勝ち残った学校のは「探究」の授業にとても力を入れている学校も多いです。今回紹介した札幌開成も札幌藻岩もそうでした。
受験勉強の必要性を否定するものではありませんが、受験を勝ち抜いたエリートの行き着く先が、公文書を改竄しても恥じない役人達であるとしたら、それはどこかでわれわれの教育システムが間違ったという証でしょう。
高校生諸君、すまん!高度成長を謳歌してしまった私たちが大きなツケを残してしまったかもしれません。でも真剣に考えている大人たち、同世代の人たちは絶対にいるので、ぜひそういう人たちと出会っていって欲しいと思います。
で、タイトルに戻ります。「SDGsは『うさん臭い』のか?」。
シニカルに考える人は、「あんなのはしょせんインチキ」と冷ややかな目を向けるでしょう。「貧困をなくそう」とか「人や国の不平等をなくそう」といったSDGsのゴールなど、しょせん「交通ルールを守りましょう」と同じくらい当り前すぎて意味のない標語にすぎないのではないかと。「エコ」っぽいものにすぐに飛びつくブームさ、みたいに思われがちかも。かくいう私もすべての「流行」やメディア情報は疑ってかかるたちなので、SDGsも手放しで称賛するものではありません。
とくにSDGsが商業的に使われている「匂い」を感じると「引いて」しまいます。しかし、こんな当り前の標語を、大の大人である各国代表が国連で採択するほどに、世界は戸惑っているのかもしれません。資本主義社会が本当にこのままでいいのか、きっとよくないに違いない、でもそれに変わるものがあるのか、わからない……。
SDGsは、現在のシステムに捕らわれてしまって、にっちもさっちも行かなくなってしまった社会のうめきであり、歯ぎしりであり、ため息であるかもしれません。笑顔で「エスディージーズ!」を唱えていれば解決になるものではありません。「交通ルールを守りましょう」の標語を行き渡らせるためにお金を使うなら、事故の多い場所を徹底的に分析して解決方法を見出すことを考える方が正解でしょう。SDGsとて同じこと。声高にSDGsと言わなくても、地道に持続可能性を考えている人たちは多くいます。
高校生のみなさんには、ぜひうわべの「うさん臭さ」を乗り越え、その根底にあるものを見つめて欲しいと思います。「SDGs」の標語は本質ではありません。真実はときに不都合なこともありますが、ぜひ事実の積み重ねで「探究」していって欲しいと思います。
あれ。教員時代の癖で、最後はなんか卒業式のスピーチみたいになってしまいました。まぁ、たまにはこういうのもいいか。