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【戦争の先に・・・交流でめばえた友情】
樺太で生まれ、樺太で育った森川利一さん(91)
昭和23年に北海道に引き上げるまでの16年間を樺太で過ごしました。
何不自由なくのびのびと育ったという樺太での生活。
しかし、戦争・終戦を経て、統治される国が変わったことで逆転していきます。
昭和20年の8月9日にソ連が国境線を突破し南下。
樺太での地上戦が始まります。15日に告げられた終戦後も攻撃は続き、樺太では22日まで地上戦が繰り広げられたと記録が残されています。終戦後も、混沌とした日々がしばらく続いたといいます。
「住んでいた町は全部焼かれてしまい、少し離れた農家に身を寄せていました。終戦から一カ月ほどたったある日、ロシアの若い18,9歳くらいの青年兵が自動小銃(マンドリン)をもって略奪にきたのです。金目のものは何もないのに、銃口をつきつけられて脅された。
父が見かねて土間に手をついて泣きながら懇願して一命をとりとめた。」と、九死に一生を得た記憶を語ってくれました。
「戦争というのは、勝っても負けても正気を失うということでしょうね。虐殺もそうですよ。正気を失っている。動乱の中で。明日が分からない時代ですから。戦争はそういうものだと思いますね。」
静かに、淡々と語る森川さんの目が印象的でした。
しかし、この後の話に、私はさらなる衝撃を受けました。
戦後、本土に引き上げるまでの3年間。森川さんは、樺太の多蘭泊(たらんどまり)という場所で、ロシア人と一緒に造材関係の仕事に尽力します。日本人労働者が42名、ロシア人が15名、共に暮らしながら伐採業務を任されたそうです。その中で、ロシア人との付き合いも日常茶飯事になっていったといいます。
「ロシア人は個人的な付き合いの中では、親切でとても仲良くなれるんですね。ロシア人に対する憎悪は、ほとんど持たなくなっていきました。コチラの意見も聞いてくれて、日本人の勤勉さ、まじめさなどを評価してくれた。人間関係は2年少しだが、お互いに信頼感を持てるようになった。同じ屋根の下で一緒に暮らすと、人間というのは自然とそうなるのではないですかね。」
私はじっと、森川さんの言葉に耳を傾けました。
戦争で町を焼かれ、辛い経験をしたにもかかわらず、少し前まで敵対していた国の人と、一つ屋根の下で一緒に暮らし、交流を重ねることで、お互いを理解し合うことができるようになったという。
この経験こそが、その後の森川さんの活動の原点なのかもしれません。
森川さんは、北海道に引き上げた後もロシアとの民間交流事業に尽力し、北海道日露協会の副会長を務めるなど、91歳の今に至るまで日本とロシアを繋げる活動を続けてきました。
「平和を作るというのは、人間同士の交流でしょうね。実際に肌に接して、はじめて心を打ち解けて話すという交流しかないと思いますね。それに尽きると思います。」
【取材後記:森さやかの思うコト】
北海道には、シベリアでの抑留や、樺太や満州からの過酷な引き上げを経験した方がたくさんいらっしゃいます。しかし戦後76年が経過し、こうした戦争体験の伝承は年々難しくなっています。けれど、そこから学び続けることを止めてはいけないと思います。
「平和」というと壮大なテーマと身構えてしまいがちですが、本当は私たち個人と個人でこそ出来ることがあるのだと、私は森川さんから教えて頂きました。
今、世界でコロナウイルスとの闘いが続き「いつも通りの生活ができることの尊さ」をみなさん感じていると思います。そんな今だからこそ、改めて一緒に考えていきたい。
戦後76年、子どもたちに「平和」を伝えていくために、私たちができることを。