昔のビールの味ってどんな味? 試してみた さっぽろ単身日記
2022.08.02
#札幌ビールのCMを見ながら、ふと思ってしまいました。
ちょっとリニューアルしただけでそんなにびっくりするほど味が変わるのだったら、昔のビールって、いったいどんな味なのか。
札幌初の国産ビールが誕生したのは、いまから145年前の1877(明治10)年。サッポロビールの起源です。実は、当時のビールを再現した「復刻札幌製麦酒」がサッポロファクトリーで製造されていて、サッポロビール博物館の見学ツアーで試飲できるんです。
この貴重なビールが飲めるのは、一人500円のプレミアムツアー。2人から申し込めるというので、早速ネットで予約して、無理やり同僚を誘って行ってきました。
見学ツアーでは館内のミニシアターで、サッポロビールの生みの親、中川清兵衛という人の半生を紹介するビデオを見ました。まずはお勉強タイムですね。まあ、すぐには飲ませてもらえないか。そう思いながら見ていると、なんと清兵衛は私と同じ新潟県出身ではありませんか。初めて聞く名前でしたが、急に親近感がわいてきました。
中川清兵衛は越後与板藩(新潟県長岡市)の御用商人の一族に生まれました。17歳のときに横浜から外国船に潜り込み、英国に密航したというから、驚きの行動力です。
7年後に英国からドイツに渡り、ドイツ人宅で住み込みのボーイをしていたとき、後に外務大臣となる留学生の青木周蔵と出会います。青木の世話でビール工場に送り込まれ、働きながら醸造技術を学びました。2年余りで帰国した清兵衛に課せられた仕事が、札幌で醸造所を設計し、ビールをつくることでした。
ドイツで修行したとはいえ、札幌でのゼロからのスタートは失敗続きだったようです。煮沸した麦汁を冷やすために期待された北の大地でしたが、最初の年は暖冬で雪も氷も入手できず、仕込みが大幅に遅れました。ドイツ渡来の酵母も満足に働かなかったといいます。ようやく完成したビールは小樽から西南戦争の政府軍本営が置かれた京都まで運ばれましたが、コルク栓が長距離輸送に耐えきれずビールが流出する事態に。そんな壁にぶつかりながらも、札幌産ビールはビールをよく知る外国人たちに「最上」だと認められるほど評判が高かったそうです。
ただ、清兵衛の試練は続きます。
当時のビールは雑菌汚染に悩まされていましたが、道庁から工場に送り込まれたドイツ人技師ポールマンが最新技術の低温殺菌法で簡単に解決してしまいました。秘密主義のポールマンは、清兵衛がいくら頼んでも技術を教えてくれません。清兵衛の部下たちを冷遇し、道産の大麦やホップを馬鹿にして使いませんでした。職場内いじめってやつですね。
プライドを踏みにじられた清兵衛は43歳で札幌を去ります。
試練はまだ続きます。
札幌を離れた清兵衛は、小樽の運河沿いに旅館を開業しました。港町として発展する小樽の勢いに乗って旅館も繁盛します。そんな中、港がなくて苦労している利尻島民の話を耳にしました。黙っていられなかった清兵衛は、47歳のときに利尻島に渡り、私財を投じて港の整備に乗り出します。しかし、大きな成果は出ず、膨大な借金を抱えて旅館も手放すはめに。
晩年は横浜で妻と暮らしました。68歳で波瀾万丈の人生を終えた清兵衛の最後の水は、本人の希望でサッポロビールだったそうです。
清兵衛のひたすらまっすぐな生き方は、幕末の越後長岡藩士で、最近では映画「峠 最後のサムライ」に描かれた河井継之助と重なって見えました。
映画の原作である司馬遼太郎の小説『峠』の中で、継之助はこう呟いています。
鈍重で、折れ釘や石ころを呑めといわれればのんでしまう連中だ。のむ前はさすがにつらい。つい大酒をくらう。大酒で勢いをつけ、唄でもうたって騒ぎ、いざのみこんでしまっては、ぽろぽろ涙をながしている。
それが、越後長岡人さ
雪掘り(屋根の雪降ろしのこと)や雪かきのような、雪のない地域では一文の得にもならない作業を黙々とこなす越後人の忍耐力、愚直さを、司馬遼太郎なりに表現した言葉です。同じ新潟の豪雪地帯で生まれ育った身としては分かる気がします。
145年前のサッポロビールは、そんな越後人の汗と涙の結晶なのかも知れません。
ますます期待がふくらみます。
試飲タイムは結局、見学ツアーの最後にやってきました。
特製のグラスに注がれた、たった一杯の「復刻札幌製麦酒」。
さて、145年前のビールの味は……
んっ、にがい。
でも懐かしい。
そうそう、ビールってこうだった。
生まれて初めてビールを口にしたときの感覚。
脳の片隅に残っていたかすかな記憶を呼び起こす味でした。