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渡英から1年足らずでロックダウン…コロナ禍の海外で夢追う道産子

「どんなことも無駄にならない」。母から教わった言葉を胸に、コロナ禍のイギリスで奮闘する一人の道産子がいます。3月下旬から始まったロックダウン(外出制限)が3カ月以上経ったいまも続き、先が見えないなかでも夢を追うピアニストの女性を取材しました。

「バレエピアニストなら自分を好きになれる」

 札幌出身の川口春霞さん(26)が渡英したのは去年8月。一つの夢を抱えていたからでした。その夢とは世界三大バレエ団の一つとされる「英国ロイヤルバレエ団」のピアニストになること。きっかけは5年前、ロイヤルバレエ団のトップピアニスト、ロバート・クラーク氏の演奏をYouTubeで聴いたことでした。バレエ団の溢れる表現力、その中で彼が弾く音から滲み出る感情に衝撃を受け「どんなに時間がかかっても、ここで弾きたい」と決意します。

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川口春霞さん

 普段あまり聞きなじみのない「バレエピアニスト」という職業。日々のレッスンや、本公演に向けたリハーサルでオーケストラの代わりに伴奏をするのがその役割です。実は、レッスンでは踊りのリズムにさえ合っていれば選曲はピアニストに任されるといいます。つまり、オールラウンドに対応できるスキルが求められるのです。
講師だった母の手ほどきで5歳からピアノを始めた川口さんは高校卒業後、洗足学園音楽大学に進学します。ただ、ジャズやクラシック、即興演奏など様々なジャンルに興味を持ったものの得意分野を見つけられずコンプレックスを感じていました。転機が訪れたのは大学3年生を迎えようとしていた春でした。大学に〝バレエコース〟が新設されたことで、バレエピアニストという仕事に出会ったのです。「もしこの仕事に就けたなら、自分を好きになれる」。コンプレックスをモチベーションに変え、夢への道を歩き始めました。

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日本のバレエ教室

夢をつかんだ矢先…

 川口さんがロンドンのバレエスクールで働きながら、ロイヤルバレエ団のオーディションに挑戦したのは去年11月。書類選考などを順調に通過し、3月上旬に実技試験に臨みました。その直後、思わぬ人からある言葉をかけられます。「すごく良い演奏だった。よかったら僕たちと一緒に働かないか」。声の主はロイヤルバレエ団を目指すきっかけになった憧れの人、ロバート・クラーク氏でした。「嘘かな」と耳を疑ったそうですが、扉は確実に開き始めていました。しかしその矢先に、新型コロナウイルスが世界中を襲い始めます。選考も中断され、川口さんに届いていた「ほぼ内定」の報せも白紙に。夢を追うどころではない、不安な毎日が始まりました。

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ロンドンのバレエ教室

 突如訪れた「ロックダウン」の毎日。聞き慣れない言葉に戸惑う隙も与えず、日常は瞬く間に姿を変えていきました。街から人は消え、スーパーも品不足が続きます。川口さんが暮らす地域では2カ月以上もスーパーで卵さえ手に入りにくくなったといいます。職場のバレエ教室も休業となりましたが、英国政府はフリーランスの人に対しても賃金を8割補償する制度を打ち出しました。さらにたまたまこの時期に、ピアノを譲り受けることが決まっていたのが不幸中の幸いでした。つかみかけた夢が零れ落ちぬよう、川口さんはピアノと向き合うことに。「選考が白紙と言ってもまだ何かが決まったわけじゃない。自分にできることはやっておこう」と選考再開に備え、バレエの映像を見ながら自宅で練習を重ねる日々が続いています。そして練習と並行して、ある取り組みを始めました。

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ロックダウンで閑散とするロンドン

「どんなことも無駄にならない」

 「自分たちの音楽が人の心を少しでも癒せるなら」。そんな思いで始めたのが〝リモート演奏会〟です。大学時代の仲間と、パートごとに演奏を収録しYouTubeなどに公開しました。自宅で自分のために鍵盤を叩くだけだった毎日が、聴いてくれる人を思い浮かべながら音を奏でる日々へと変わり、心の支えになっているといいます。「仕事もなくなって本当に無気力になり心が沈んでしまいそうだった。でも、出来上がった作品を聞いてもすごく幸せな気持ちになりますし、音楽ってどんなときも自分を救ってくれるなと改めて思った」と誰かのために演奏できる喜びをかみしめています。

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自宅でピアノ演奏

 もう1つ、心の支えがあります。それは故郷・北海道に住む家族の存在です。外出制限のおかげで自由に使える時間が増え、時差があっても連絡しやすい環境になりました。川口さんの母も音楽スタジオを主宰するなど、自身と同じようにピアノを仕事としています。そんな母が、いつも口にしていた言葉がありました。それが「どんなことも無駄にはならない」ということ。慣れない海外で、想像だにしなかったロックダウンの世界。英国では7月4日から劇場やコンサートホールがオープンしますが、ライブパフォーマンスは認められません。バレエの公演はもちろん、教室が再開するめどもつかないままです。いったいいつになったら日常が戻るのか。それでも、母の言葉が足元を照らします。「今、何をすべきかを一番に考えて前向きに行動していきたい」。笑顔で話す川口さんはその視線の先に、つかみかけた夢を追い続けています。

この記事を書いたのは

HTBロンドン特派員 山上 暢